
テーマ・パーク:特定のテーマを題材にした観光施設。大規模な遊園地。
ディズニー・ランドの展開:
ディズニー・ランド
(アメリカ、カリフォルニア州)1955年7月開園
ウォルト・ディズニー・ワールド
(アメリカ、フロリダ州)1971年10月開園
エプコット1982年10月開園
ディズニー・ハリウッド・スタジオ1989年5月開園
ディズニー・アニマル・キングダム1998年4月開園
ディズニー・タイフーン・ラグーン1989年6月開園
ディズニー・ブリザード・ビーチ1995年4月開園
東京ディズニー・ランド(日本浦安)1983年4月開園
東京ディズニー・シー2001年9月開園
ディズニーランド・パリ(フランス首都パリ)1992年4月開園
ウォルト・ディズニー・スタジオ・パーク2002年3月開園
香港ディズニーランド(香港)2005年9月開園
上海ディズニーランド(中国上海)2016年6月
日本では一番、賑やかなところ、誰もが一度は行ってみたいところとして、日本を代表する観光名所となっています。
浦安と言う地名も全国区となり、成人式では新成人がディズニー・ランドに無料で招待されることでも有名です。

そんな、夢と魔法の国を浦安に創ったのには、大変な苦労があり、サービス業ならではのとっておきのサービスがあったようです。
さかのぼること、東京ディズニー・ランドが開業する10年前の1974年。ディズニーランドを運営するアメリカの会社ウォルト・ディズニーが創設したウォルド・ディズニー・カンパニーのお偉いさん(会長、社長、副社長 などの経営幹部)が日本にやって来ました。
目的は、東京ディズニー・ランドの候補地である浦安の視察ですが、実はディズニー・ランドの建設には、他にも候補地がありました。日本を象徴する富士山のおひざ元の富士エリアです。富士スピード・ウェイ近くの清水市が候補地となっていました。
ディズニーのお偉いさん方は、富士と浦安の候補地を視察して建設予定地を決定するためにやって来たのでした。今ではオリンピックなどの開催地を決定するためのプレゼンは良く知られるようになり、会社の中でも、予算を確保するためや事業方針を決定するためのプレゼンも一般的になって来ています。
プレゼン:プレゼンテーション presentation、聴き手に情報を伝える方法のひとつ。理解を得ることが大事で視覚的効果が重要視されます。

日本を代表するプレゼンターの、とっておきの、おもてなしを紹介します。
堀貞一郎:1929年2月6日-2014年2月10日、東京都出身、早稲田大学卒業後、広告代理店・電通の前身、日本電報通信社に入社しラジオ・テレビのプロデューサーを経て、1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博にて数々の企画を行い、1972年に三井不動産の企画に就任し、オリエンタルランド(東京ディズニー・リゾートの親会社)常務取締役に就任しディズニーランドの日本誘致を担当。東京ディズニー・ランドのホーンテッド・マンション入館の案内役に声優として出演しています。
プレゼンター:presenter、プレゼンテーションをする人
プレゼンテンター:とは言いません
ディズニーのお偉いさん方を視察する順番は①富士、②浦安で、日本に到着し、初日は富士を視察しました。東京から富士へは車で高速を使って3時間。
宿泊先は東京都心の赤坂にある帝国ホテル。浦安へは車で1時間。当時はまだ首都高速湾岸線はありませんでした。
首都高速:1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催に向けて建設されました。1962年に京橋-芝浦間が開通し、1号羽田線が翌1963年に開通、順次拡大して行きます。
浦安は東京の一部であると言う印象を与えたく、実際には東京都ではありませんが、東京都心から直ぐと言う近さをアピールしました。帝国ホテルでのプレゼンでは、床一面の大きさの浦安地区を中心とする東京と千葉を合わせた地図を用意して、東京都心の一部であり、成田、羽田にとっても近いと言う印象付けをしました。当時まだ成田空港はありませんでした。
成田空港:千葉県成田市1978年5月開港
羽田空港:東京都大田区1931年8月開港
アメリカ人に対してプレゼンをするので、当然、英語でのプレゼンになります。ディズニー会長の冒頭の挨拶で残念なことに日本語を勉強してくる時間が無かったと言うアメリカン・ジョークがあり、急遽、プレゼンの方法を変えました。聴き手の心理をつかむ作戦として、通訳さんがマイクを使いませんでした。プレゼンターは日本語でマイクを使い、身振り手振りのオーバー・アクションで行い、英語の通訳さんはマイク無しでした。狙いは日本語と英語が両方、大きな音量で耳に入ると、眠くなり、頭に入らないそうです。そのため、大きな音量の耳に入るのは日本語だけとしてボディ・ランゲージで説明をしました。この作戦は見事に的中し、堀さんの日本語は良く判ると、お褒めの言葉を戴きました。

午前中のプレゼンが終わり、いよいよ、浦安の建設予定地の視察です。昼食の時間ですが、バスに乗車をします。日本人は時間が押してしまうと、昼食時間が充分に取れなくなり、簡単に短時間で済ましてしまうとか、時間を遅らせて昼食と言うこともありますが、外国人は食事の時間はしっかりと取るようです。
ここでも、とっておきのおもてなしを用意しています。東京一の豪華バスに英語がペラペラの振袖姿のきれいどころ、そして飲み物。いわゆるウェルカム・ドリンクと言うものです。ディズニーのお偉いさん方のひとり一人の好みの飲み物を用意してあります。コカ・コーラ、ペプシ・コーラ、バーボン、カクテルだったり、そこで飲み物はいかが致しますか?、何でもご用意いたします。と お伺いし、しっかりとお好みの飲み物をお出しする。と言うサプライズです。
昼食はお弁当です。しかし超一流です。帝国ホテルのレストランにお金に糸目はつけないので、アメリカ人が好むお弁当を注文しました。出来立てのステーキを不味いと言うアメリカ人はいないでしょう。この作戦も大当たり、美味しいものを食べると人は幸せになるものです。しかもアペリティフを飲んで、食事をしている間に、浦安に到着し、東京都心から浦安の距離感を感じさせない演出もしたのです。お昼の時間帯は道路が空いていると言うことも折り込み済みです。










食事を食べ終わると、浦安市市役所に到着し、市長を筆頭に市民がアメリカの国旗を振っての大歓迎です。そして、浦安は街全体で、ディズニー建設を歓迎していますと言うメッセージを伝えます。とかく新しいものを建てるとなると、立ち退き、環境問題などで反対運動が発生してしまいますが、ここには反対運動は無く、街全体が歓迎ムードです。
それはディズニーにとっても同じこと。世界中のあらゆる建設候補地を見て回ったが、こんなに住民が歓迎してくれるところは初めてでした。見事な演出です。
そして、いよいよ建設予定地。今ではディズニー・リゾートと言う日本一と言われる一大リゾート地になりましたが、50年前はただの埋め立て地です。72万坪と言う広大な土地に平らさをアピールするための建築用の柱を、鉄道、高速道路、ディズニー・ランドのそれぞれの建設予定の場所に目印として建てました。
東京湾の開発:歴史は古く明治時代に始まりました。1964年に浦安地区の埋め立てが始まり、1975年に舞浜が誕生しました。1889年(明治22年)に「浦、安かれ」と心安らぐ想いの込められた浦安、そして日本の代表的な神楽舞・浦安の舞から舞浜と名付けられました。
説明が終わると、ヘリコプターで帝国ホテルに戻ります。ここでも移動時間を感じさせない魔法を使います。普通の人はヘリコプターに乗ることはあまり無いので、恐怖感があり、怖がっている間は、時間の経過を感じないものです。

更に、浦安から帰路の最短距離は皇居の上空を通過するルートなのですが、皇居の上空は飛行が禁止されています。急いでいるから皇居を横切って行くと言う会話を敢えて聞こえる様に話すことで、恐怖心をあおったのでした。
新宿副都心(かつてはそう呼んでいました)の高層ビル群を迂回し、当時、日本一の高さだった三井ビルを横目にディズニー・ランドはこの高層ビルを建てた三井が建てますと説明します。
帝国ホテルへの帰路もあっと言う間、ヘリコプターでの浦安-赤坂の飛行時間は、飛び立つ不安感とまるでニューヨークのマンハッタンを思わせる光景で距離感を感じさせないものでした。
やれることは何でもする。と言う信条でみごと、ディズニーを浦安に連れて来たのでした。

仕事・ビジネス・日常生活にも、おもてなし が役立つことが盛り沢山。
おさらいのため、少し振り返ってみます。
説得するには、熱意が必要。
時間を大事に使う。
知力、体力、つき を全部使う。
そして、おもてなし の心。
このお話の全文は、こちら

おもてなしから始まったディズニー。これからも楽しませてくれることでしょう。
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